吉田松陰


 幕末の偉人・吉田松陰は、長州・萩の生まれであり、佐久間象山に学ぶと、世界の情勢を知るために、海外渡航を企てます。
 嘉永6年(1853)、開港を求めて長崎に来航したプチャーチンのロシア艦に便乗して、海外渡航を企てますが、艦はすべて退去した後でした。次いで金子重之輔とともに、嘉永7年(1854)、日米和親条約の締結により即時開港された下田に、米国ペリー艦隊を追ってたどり着きます。
 下田に到着したのは、艦隊の初陣が入港したのと同じ、3月18日のことでした。松陰と重之輔は、それぞれ「瓜中万二(かのうちまんじ)」、「市木公太(いちきこうた)」に変名し、岡方屋(現・下田屋旅館)に宿をとり、機会を窺っていました。そのとき、皮膚病に苦しんでいた松陰は、治療のため、蓮台寺温泉へ向かい、そこで医師・村山行馬郎(むらやまぎょうまろう)と知り合うと、村山の好意により、村山邸(現・吉田松陰寓寄処)に身を寄せ、温泉治療をすることとなります。3月25日夜、稲生沢川口より伝馬船を漕ぎ出して、米艦への漕ぎつけを図りますが、悪天候と高波のため失敗、26日に米兵に「投夷書」(渡航嘆願書)を渡し、27日夜(正確には28日午前2時頃)、弁天島近くから船を出してペリーの旗艦・ポーハタン号に漕ぎつけ、熱心に渡航を懇請します。通訳ウィリアムズは条約が結ばれたばかりであり、信義に反して、政府の許可がない渡航をさせるわけにはいかないと断り、バッテーラ(小船)にて福浦海岸に送り返します。
 事破れた両人は柿崎名主・増田平右衛門宅に自首し、下田奉行所に連行された両人は、一時長命寺に拘禁(吉田松陰拘禁跡・現下田市教育委員会)され、更には、平滑の獄にて、黒川嘉兵衛の取調べを受けた後、江戸伝馬町の獄に送られました。
 その後、萩に送られ、野山獄に投獄されますがその後、実家である杉家預かりとなり、安政4年(1857)、叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾します。この松下村塾では、長州藩の下級武士であった久坂玄瑞や伊藤博文等を教育しました。
 その後、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝(まなべ あきかつ)の暗殺を計画しますが、計画が頓挫、松陰は長州藩に自首します。
 その後、井伊直弼(いい なおすけ)の「安政の大獄」によって、安政6年(1859)10月27日に処刑されました。(享年30歳)。