下岡蓮杖(しもおかれんじょう)


 幕末期、下田で生まれた人物に写真家・下岡蓮杖(しもおかれんじょう)がいます。
日本で最初に写真を始めたのは、オランダ人によりその技術を伝授された長崎の上野俊之丞(うえの としのじょう)でしたが、それよりやや後れて上野氏とはまったく別に、苦心の末に写真技術を習得したのが蓮杖でした。
 蓮杖の開設した写真館が日本最初であるところから、「日本写真師の祖」あるいは「日本商業写真の祖」とも称されています。
 下岡蓮杖は桜田與惣右衛門(さくらだよそえもん)の三男として文政6年(1823)2月12日、下田中原町で生まれます。幼少は桜田久之助(さくらだひさのすけ)。桜田家は浦賀船改船所の問屋であり、蓮杖は6,7歳の頃、岡方村の土屋善助の養子となります。
 後の慶応年間、生まれた下田町の「下」と、養子にいった岡方村の「岡」を取り、姓を「下岡」と改め、蓮の根の杖を持つことを常としたので「蓮杖」と号しました。
 蓮杖は13歳のとき、画家を志し江戸を出ますが、思うようにならず、足袋屋の丁稚となって働き、次いで天保14年(1843)下田に帰り、砲台付足軽となます。そこでの伝手で江戸を出て、狩野董川(かのうとうせん)の門に入り、狩野派の絵を学びます。あるとき江戸の薩摩藩下屋敷にて初めて銀板写真を見て、その精巧さに感激し、写真術の習得を志すこととなります。
 嘉永6年(1853)30才のときに蓮杖と号し、安政3年(1856)ハリスが米国総領事として下田に着任したときに、下田奉行所の足軽となります。御馳走係筆頭として外国人との接触の機会を得ると、写真機を所持していたオランダ人通訳ヒュースケンから写真についての説明を受けたといわれています。
 万延元年(1860)、新たな開港場となった横浜に行き、米人写真家ウンシンと知り合い、写真機材一式を譲り受けると、その資材や薬剤等を用い実験を重ね、1年半という月日をかけ、辛苦の末にようやく湿板写真術を習得します。(蓮杖39才のとき)。
 文久2年(1862)の終わり頃、横浜野毛、ついで弁天町に写真館を開業、画家としての心得を生かした人工着色や画像の演出により、蓮杖の写真館は繁盛します。
 一時に妻・美津の過労から下田に帰りますが、また横浜に出て弁天通り及び太田町にも富士山を模った看板を掛けた写真館を新設、本町にも写真館を新設したとされています。
 石版画印刷京浜間乗合馬車事業、牛乳販売事業など新事業にも手を染めたとされており、「幕末明治のマルチ人間」、「ベンチャービジネスの先駆け」と評価する人もいます。
 明治7年(1874)、アメリカ人宣教師により洗礼を受け、熱心なキリスト教信者となり、明治8年(1875)か9年(1876)には、浅草に移り住み、写真館の書割を書いたり、コーヒー茶屋(喫茶店)の創始、軍旗の写真額を開発などを行い、晩年は絵画を描いて過ごし、大正3年(1914)3月3日、92歳で没しました。
 蓮杖は慶応年間から多数の弟子(門人)を養成しており、下田の船田万太夫、鈴木真一らを輩出しました。