プチャーチンの来航


 ロシア使節の提督プチャーチンは嘉永6年(1853)、日本の開港と北方領土の画定を求めて長崎に来航しますが交渉は実らず、一旦日本を離れます。
 ペリー艦隊が嘉永7年(1854)6月に帰国して4カ月後の10月15日、プチャーチンは新鋭船ディアナ号に乗って、下田に来航します。
ディアナ号は3本マスト、2,000トン、52門の大砲と488名の乗組員が乗るロシアの最新鋭の戦艦であり、日米和親条約の締結を聞き、再び国境画定を含む日露和親条約の締結を目的として開国の町下田に来航したのです。1週間ほど遅れて、日本側全権大目付・筒井政憲(つつい まさのり)と勘定奉行・川路聖謨(かわじとしあきら)が、応接係として急遽下田に派遣されてきます。
 ロシア側との事前交渉がもたれた後に第1回日露交渉が11月3日福泉寺(ふくせんじ)にて開かれます。

安政の大津波


 第2回目の日露交渉を約束して別れた次の日、嘉永7年(1854)11月4目午前10時ころ、突然大地震とともに大津波が下田湾を襲います。地震は2回、津波は幾度となく押し寄せ、町内の家屋はほとんど流失倒壊し、溺死者等122人、戸数875戸のうち841戸が流失全壊、30戸が半壊、無事の家はわずかに4戸しか残りませんでした。また、波が下田富士の中腹まで駆け上がり、大船が「本郷たんぼ」まで押し流されたとも言われています。
 この津波により下田の町は壊滅状態の大惨事でした。湾内が空になるほど潮のひいた後、停泊していたディアナ号も津波に巻き込まれ、42回転したとも伝えられています。
 マストは折れ、船体は酷く損傷し、浸水も激しく、甲板の大砲が転倒して下敷きになり、死亡した船員も出る惨状でした。このような災害の中、ロシア側は、その日の夕方、津波見舞いに副官ポシェートと医師を同行させ、傷病者の手当ての協力を申し出ています。この厚意に応接係・村垣範正(むらがき のりまさ)はいたく感服したと伝えられています。

日露和親条約


 津波後3日目の嘉永7年(1854)11月7日から、プチャーチンは、副官ポシェートに長楽寺で事務折衝を始めさせます。13,14両日玉泉寺で全権交渉を行い、それから条約草案の事務折衝を続けます。
 14日から長楽寺で全権との交渉が続き、安政元年(1855)12月21日、日露和親条約9ヶ条と同付録4ヶ条がロシア使節プチャーチンと日本側全権・筒井政憲(つつい まさのり)、川路聖謨(かわじ としあきら)、下田奉行・伊沢政義(いざわ まさよし)とのあいだで締結されます。
 この条約の第2条では、両国の国境が「今より後、日本国と露西亜国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。(中略)カラフト島に至りては、日本国と露西亜国の間において、界を分たず是迄仕来りの通りたるべし。」と初めて定められました。
 昭和56年(1981)、日本政府は閣議了解をもって、国境条項を含むこの条約が、平和的に調印されたこの日を「2月7日 北方領土の日」とすることを定めました。(安政元年12月21日。この日は西暦で1855年2月7日にあたります。)

ディアナ号の沈没とヘダ号の建造


 嘉永7年(1854)11月4日、M8.4にも及ぶ地震に伴う大津波により、大破して遠洋航海が不能になったディアナ号は、修理港と決まった伊豆西海岸の戸田へと向かいますが、激しい波風に押し流されて駿河湾の奥深く、富士郡宮島村沖に錨をおろします。
 ここで装備や積荷のほとんどをおろしたディアナ号は、地元漁民の決死の協力で再び航行を試みますが、艦は浸水激しく失敗して駿河湾で沈没を余儀なくされます。
 乗員およそ500人は全員救出されて無事戸田に収容されました。乗艦を失ったプチャーチンは、直ちに帰国用の代船の建造を幕府に願い出て、幕府もこれを許可、修理する予定だった戸田で代船の建造が決定されます。天城山の木材を使用し、近郷の船大工を集めて日露共同で日本最初の洋式造船が始まったのです。
完成した船は「ヘダ号」と名づけられ、建造に参加した船大工は洋式造船の技術を習得する絶好の機会に恵まれます。プチャーチンはディアナ号の遭難にもめげず、下田にとって帰り、日露会談を続行させました。

ロシア使節団の帰国


 帰国する艦船を失ったプチャーチン一行は三陣に別れて帰国しています。第一陣は安故2年(1855)2月米国の商船フート号を雇い、159人を乗船させ帰国の途につきました。
 第二陣は戸田で建造された新造船「ヘダ号」で、同年3月プチャーチン以下48名が乗船して、故国に向かって出帆します。残りの第三陣270人余は、米国船のグレタ号を傭船して同年6月戸田港を出帆しました。しかし、グレタ号はオホーツク海でイギリスの軍艦に発見され、全員捕虜として捕らえられます(クリミア戦争の最中で、ロシアとイギリスが対立していたため)。その後、香港、英国本土へ移され、ロシアに送還されたのは、クリミア戦争が終結し、講和した後でした。