【ハリスの下田着任】


 嘉永7年(1854)3月3日、日米和親条約の締結により下田は日本最初の開港地となります。ペリー艦隊が下田に来航し、同年5月22日、付録下田条約が締結され、玉泉寺と了仙寺が米人休息所に指定されます。
 下田のおける米人の上陸遊歩の範囲は、港内の犬走島を中心に半径7里以内と定められていましたが、上陸遊歩のみで止宿は許されていませんでした。
 安政3年(1856)7月21日、タウンゼント・ハリスが米国総領事としてサン・ジャシント号にて下田を来航します。しかし、幕府は彼の来任を認めず、紛糾します。これは日米和親条約の条文解釈の違いによるものでした。日本文では「両国政府においてよんどころなき儀」があった場合と表現されていますが、英文では「両国政府のいずれか一方がかかる処置を必要と認めた場合」となっていたためです。
 幕府は駐在を拒絶しようとしますが、強硬な主張をするハリスに押され、柿崎の玉泉寺を仮の宿所とすることで同意します。この後、8月5日にハリスは総領事として玉泉寺に入り、翌6日には星条旗が庭高く翻りました。
 ハリス来任の目的は通商条約の締結でした。ペリーとの間に締結された日米和親条約には、通商条項は盛り込まれていなかったためです。
しかし、徳川幕府はあくまでも通商条約を嫌い、ハリスの再三の江戸出府、幕府要人との交渉要求を拒否し、下田奉行をして引き伸ばしの対応をせしめたのでした。そんな中、ハリスは下田奉行・井上信濃守(いのうえしなののかみ)との間に、安政4年(1857)5月26日「下田協約」9ヶ条を締結し、
(1)日米貨幣交換比率改定
(2)下田・箱館における米人居住権
(3)長崎港の追加開港
(4)領事の日本国内旅行権
(5)領事裁判権の承認
等、7項目の要求を認めさせました。この下田協約は、次の通商条約締結への道を開いたものとなりました。

【お吉にまつわる物語】


「唐人お吉」と呼ばれる物語はこの頃のことです。
江戸出府問題や下田協約締結上の紛糾等で健康を害したハリスの看護や身の回りの世話をするため、ヒュースケンは奉行所に看護婦の斡旋を求めます。看護婦制度を知らなかった奉行者は側女のことと早合点し、一時戸惑いますが、下田町役人に出仕女を探すように命じ、ハリスに「おきち」、ヒュースケンに「おふく」を配します。「お吉物語」はこのことを題材として、物語にしたものです。

【日米通商修好条約】


こうしている間、隣の中国では、英仏両国の連合艦隊が広東において第二次対中国戦争を始めていました。次いで安政4年(1857)7月20日米砲艦ポーツマス号が下田に入港します。このことは幕府の姿勢に大きな変化をもたらし、ついにハリスの江戸出府を認めることとなります。ハリスは同10月7日下田を出発、天城を越え、箱根の関を通って江戸に向かいます。その行列の規模は大名並みだったといわれます。
待望の江戸出府をなしたハリスは、老中・堀田正睦(ほった まさよし)をはじめ、下田奉行・井上信濃守(いのうえしなののかみ)、勘定奉行・川路聖謨(かわじとしあきら)、大目付・土岐丹波守(ときたんばのかみ)らの要人と会談し、支那(中国)における欧米列強、英国の香港総督ボーリング卿の「武力による日本開国」の公言など、巧みに日本の危機を説き、「アメリカとの通商条約の締結が先例となり、各国もこれに倣うこととなる、万一の場合はアメリカが仲介の労をとる」旨等を説きます。
 幕府は内外の情勢の変化を見て、条約締結やむなしの方針のもとに、条約交渉に入り、安政5年(1858)1月、交渉は妥結となりましたが、勅許が得られず、調印は延引を重ねます。そこへ6月13日、米艦ミシシッピ号が下田に入港し、英仏両国が日本に進攻するとの情報を伝えます。ハリスは即刻幕府に決断を迫り、大老・井伊直弼は最後の決断をなし、同5年6月19日小柴沖ポーハタン号艦上において、「日米修好通商条約」及び「貿易章程」が調印されます。このときの日本側全権は下田奉行井上信濃守(いのうえしなののかみ)、目付・岩瀬忠震(いわせただなり)らでした。
安政6年(1859)5月に横浜が開港され、玉泉寺の領事館は閉鎖、ハリスも同時に下田を去り、12月には下田は閉港されます。こうして安政元年(1854)から6年に及ぶ外交史の舞台となった下田はその幕を下ろしました。