▽神子元島と比翼塚
参照 南豆風土記下田の文化財伊豆の伝説
相模北東風で石廊崎は西風よ 相の下田が出しの風よ (俚謡)
と唄われた下田港の南西約十粁 石廊崎より南東約九粁の海上に浮ぶ最高海抜32米の一岩山、一木を止めず、僅かに雑草が岩間に生えているのみの岩礁神子元島、此の頂上にそびえ立つのが神子元島灯台である。
現存する我が国最古の官設洋式石造灯台で国の文化財(史跡)として昭和44年7月指定を受けた。
この灯台に初めて灯がともったのは、明治3年11月(海面上164尺、晴天光達19里半67500燭光)であった。
以来100余年地震にも台風にも微動だにせず海の護りを全うして来たことを改めて思わせられる。
ペリー遠征記に「ロックアイランド(神子元島)から伊豆半島へと暗礁が続いており潮流の流れも迅く而も複雑であり、風向も変化多く航海の難所である。」とあるように昔から多くの命がこの暗礁と潮流に奪われた。
慶応2年英仏米蘭と我が国との間に改税条約が調印された際その第11条により航行の安全を図るため英国公使パークスは海軍局、航海家と協議し神子元島外10ケ所に灯台や浮漂を設置することを政府に建言した。
神子元島灯台は英人技師プラントン監督の下に工事に着手したのが明治2年2月であった。爾来1年10ケ月、一木も生えていない絶海の孤島に人力のみによって石造灯台を築いた工事が如何に困難なものであったかは想像にかたくない。
明治9年までは灯台の保守に外国人が雇われていたと記録され灯源も石油ランプから今では自家発電に変り無電設備も備えられた。太平洋戦争では艦砲射撃を受け、弾痕は今なお残るが100年余揺いだ形跡はない。看守と共に黙々と煌々と航海安全の大役を果たしている。
この島の突端に潮風にさらされ乍ら今に残っている小さな墓があるが、これは「おすみ与吉の比翼塚」と言ってこんな悲しい物語がある。
昔、紀州(和歌山県) の若い船人、与吉が新妻のおすみを連れてこの神子元島の近くまで航海して来た時、この若い夫婦の睦まじさは海神のねたみに触れたのか、急に風は吹き荒れ、海は逆巻く大怒涛となって、船は木の葉のように弄ばれ、遂に打ち砕かれてしまい、与吉とおすみは命からがらこの島に這い上がったのであった。
ところが此の島は、一木一草もないまったくの岩礁なので口にする何物もない。はじめのうちは海藻を採り貝を拾って飢を凌いでいたが、日数がたつにつれてそれも心許なくなって釆た。
波は荒れ狂っている。救いを求めるべき舟も見えず、食べるものはなくなる。
たった二人きりで漉しない海を、見ているばか)・・・・・・。
与吉は、このままこうして救いをじっと待つよりはーと意を決し、「少しの間辛抱して待つように」とおすみには言いきかせ遙かに見える下田港に助けを求めて、ザブンとばかり荒れる海に飛びこんで泳ぎ出した・・・。ところがそれから2日たっても3日過ぎても与吉は遂に島には帰って釆なかった。流れの速い黒潮は、一途に妻を思う与吉を無惨にも呑みこんでしまっていたのである。
夫を信じ、一日千秋の思いで夫の帰りを待ちこがれていたおすみは、悲しみと絶望の果、恋しい夫の名を呼びつづけながら、物凄いまでに月のさえた夜、遂に傷心の身を底知れぬ海に投じて夫の後を追ったのであった。
この哀れな、そして痛ましい二人の「比翼塚」も、昭和28年下田観光協会の手によって灯台と官舎の近くに新しく建てられ、訪れる人々の涙を誘っている。
下田市の民話と伝説 第1集より
参照 南豆風土記下田の文化財伊豆の伝説
相模北東風で石廊崎は西風よ 相の下田が出しの風よ (俚謡)
と唄われた下田港の南西約十粁 石廊崎より南東約九粁の海上に浮ぶ最高海抜32米の一岩山、一木を止めず、僅かに雑草が岩間に生えているのみの岩礁神子元島、此の頂上にそびえ立つのが神子元島灯台である。
現存する我が国最古の官設洋式石造灯台で国の文化財(史跡)として昭和44年7月指定を受けた。
この灯台に初めて灯がともったのは、明治3年11月(海面上164尺、晴天光達19里半67500燭光)であった。
以来100余年地震にも台風にも微動だにせず海の護りを全うして来たことを改めて思わせられる。
ペリー遠征記に「ロックアイランド(神子元島)から伊豆半島へと暗礁が続いており潮流の流れも迅く而も複雑であり、風向も変化多く航海の難所である。」とあるように昔から多くの命がこの暗礁と潮流に奪われた。
慶応2年英仏米蘭と我が国との間に改税条約が調印された際その第11条により航行の安全を図るため英国公使パークスは海軍局、航海家と協議し神子元島外10ケ所に灯台や浮漂を設置することを政府に建言した。
神子元島灯台は英人技師プラントン監督の下に工事に着手したのが明治2年2月であった。爾来1年10ケ月、一木も生えていない絶海の孤島に人力のみによって石造灯台を築いた工事が如何に困難なものであったかは想像にかたくない。
明治9年までは灯台の保守に外国人が雇われていたと記録され灯源も石油ランプから今では自家発電に変り無電設備も備えられた。太平洋戦争では艦砲射撃を受け、弾痕は今なお残るが100年余揺いだ形跡はない。看守と共に黙々と煌々と航海安全の大役を果たしている。
この島の突端に潮風にさらされ乍ら今に残っている小さな墓があるが、これは「おすみ与吉の比翼塚」と言ってこんな悲しい物語がある。
昔、紀州(和歌山県) の若い船人、与吉が新妻のおすみを連れてこの神子元島の近くまで航海して来た時、この若い夫婦の睦まじさは海神のねたみに触れたのか、急に風は吹き荒れ、海は逆巻く大怒涛となって、船は木の葉のように弄ばれ、遂に打ち砕かれてしまい、与吉とおすみは命からがらこの島に這い上がったのであった。
ところが此の島は、一木一草もないまったくの岩礁なので口にする何物もない。はじめのうちは海藻を採り貝を拾って飢を凌いでいたが、日数がたつにつれてそれも心許なくなって釆た。
波は荒れ狂っている。救いを求めるべき舟も見えず、食べるものはなくなる。
たった二人きりで漉しない海を、見ているばか)・・・・・・。
与吉は、このままこうして救いをじっと待つよりはーと意を決し、「少しの間辛抱して待つように」とおすみには言いきかせ遙かに見える下田港に助けを求めて、ザブンとばかり荒れる海に飛びこんで泳ぎ出した・・・。ところがそれから2日たっても3日過ぎても与吉は遂に島には帰って釆なかった。流れの速い黒潮は、一途に妻を思う与吉を無惨にも呑みこんでしまっていたのである。
夫を信じ、一日千秋の思いで夫の帰りを待ちこがれていたおすみは、悲しみと絶望の果、恋しい夫の名を呼びつづけながら、物凄いまでに月のさえた夜、遂に傷心の身を底知れぬ海に投じて夫の後を追ったのであった。
この哀れな、そして痛ましい二人の「比翼塚」も、昭和28年下田観光協会の手によって灯台と官舎の近くに新しく建てられ、訪れる人々の涙を誘っている。
下田市の民話と伝説 第1集より