武山と役行者
参照 伊豆の伝説
 武山は旧下田町の東方下田橋の対岸にどっしりとそびえ立っている。下田八景の一つで、この山に登れば北は起伏重畳する天城の連峰、その上にぽっかりとぬきんでた富士の麗峰を望み、東は稲取ケ崎から西は石廊岬まで一望にすることが出来る。また眼下には須崎の鼻の彼方遥か水平線上に絵のような伊豆七島が点在する。この眺望の壮大と雄偉なことはまこと南豆第一と称せられるわけである。
 幕末、黒船来航の時にはこの山頂に見張所を設け、白旗を立てのろしをあげて警戒したという。
多郁富許都久和気命(たけほこつくわのみこと)を祭った武山権現は、南方の中腹にあり、鋼瓦葦の壮麗なもので、下田奉行今村伝四郎正令が深く尊崇し、社殿を修造したと伝えられている。その後いつか廃されてただ僅かにその址が残っていたが、大正四年町の大火の際この山にも飛火して、あとかたもなく焼失してしまった。武山の名はこの多郁富許都久和気命の神名から出たものであるが、山麓に、稲生山萬蔵院(修験宗、今は天台宗)があって武山神社を支配しておったので一名萬蔵山(まんぞうやま)ともいわれている。
修験宗萬蔵院といえばこの山には役行者(えんのぎょうじゃ)(役小角)の遺跡がある。 昔 舒明天皇の六年大和葛城郡茅原に生れた役の小角は16才にしてすでに生駒熊野の両山に攣じ長じて天智天皇の四年32才の時には、葛城山に登り、爾来30年穴居して修道苦行、常に草衣木食、孔雀明王の神咒を誦して奇異の験術を得た。
その後、金峰、大峰二上、高野、牛滝、神峰、本山、箕面等の諸高山を踏開し、近畿一帯の大嶽で小角の足跡を印さない所はなかったが、たまたま文武天皇の三年66才の時ざんせれて伊豆に島流しされた。
 今、武山に遣っている洞窟はその頃小角の住んでいたもので洞窟の前には寛政11年に建てられた「高祖神変大菩薩」の碑と1300年遠忌に建てられた「役行者」の碑がある。小角は光格天皇の寛政11年1100年遠忌にあたって「神変大菩薩」の諡号(しごう)を贈られたのである。その後、文武天皇の大宝元年68才のとき赦されて京都に帰り、後、九州に遊んで豊前彦山を踏開したがそれから先は明らかでない。尚富士登攀はこの小角によって先鞭をつけられたものであるという。
 今は武山の「役行者」の住んでいた洞窟も石碑も、又小角の腰掛岩もすべてもとの位置のまま「下田武山荘」(現在は閉鎖)の庭園内に存置されている。武山は本郷門脇方面から見ると美人が仰向けに寝たようにも見えることから、寝姿山とも臥美人山とも呼ばれ、今はロープウェイによって3分足らずで頂上の眺めを満喫することもできるし、高根山方面に遊歩道もできている。
下田市の民話と伝説 第1集より