稚児ケ渕
 和歌の浦の海が城山に深く入りこんでいる所を昔の人は「椎児ケ渕」と呼んだ。
椎児ケ渕には次のような話が伝えられている。
 和助は毎日継母のおりよに打たれたり、つねられたりして体に生きずの絶える時はなかった。それを祖父の甚七はとても可哀そうに思って、蔭になり日なたになってかばってやった。が
おりよの和助に対する虐待はますます募り、箸の上げおろしに遊びに、ことごとに和助につらくあたった。
 或る日のこと、日が暮れても和助は家に帰って来なかった。
祖父の甚七も父親の嘉助もあまり和助の帰りが遅いので心配しておりよに聞くと「どこかそこらで遊びほうけているづら。見に行って来べい。」といって出て行ったが、間もなく戻って来て「どこにもいないよ。どこへ行ったずら」という。そわそわしたおりよの顔を見ているうちに甚七は顔色を変えた。日頃のことを知っている近所の人たちは 「ワスがいなくなったそうだ。
可愛そうに、どうかされたんじゃァないか」と、騒ぎが大きくなって、甚七の家に人が入ったり出たりした。
そのうちにワスの友達が「昼間ごろおりよが桜んぼを取ってやるといって、キンが稲荷のところから城山へ和助を連れて登って行くのを見た」といいだした。
「さては?」と人々は手に字に提灯を持って「ワスやァーい出ろよ!ワスやァーい出ろよう!」と城山中を探し廻った。
その数多い提灯とこだまする呼び声と、石油缶をたたく音が城山を右往左往して物凄かった。
 だが「ワスや−い出ろよう」といくら呼んでも和助は遂に出て来なかった。疑いは当然おりよにかけられた。
きびしく問いつめられたおりよは、「あんまりいうことを聞かないので、和歌の浦の井戸へ突き落した」ともいい、「殺して山のある所へ埋めた」ともいい、「山の上から和歌の浦へ突き落したともいったが」、そのいづれを深しても和助の死体は、和助のものと思われるものはついに見つからなかった。
 それから誰いうとなく和助が突き落されたという和歌の浦に続いた深い紺碧の渕を「椎児ケ渕」と呼ぶようになった。
その後風のたよりに、和助は突き落されて流れて行くうちに、或る船に助けられたらしく、何年かの後、志州の鳥羽で和助にそっくりの男の子を見たというまことしやかな噂も流れたが、確かな事ではない。
 今でも「稚児ケ渕」は和助の行方を秘めて紺碧の海水に洗われている。
下田市の民話と伝説 第1集より