おまつのえご
 須崎半島の南西恵比須島の近くに越瀬(おつせ)という部落がある。
この部落の前面に須崎港を南に抱く黒い岩礁が東に向って将棋倒しの姿勢で横たわっている。これが平磯である。この平磯の中程に入江状のどんぶり(深み)があって、土地の人達はここを「おまつ」とか「おまつのえご」とか呼んでいる。
「えご」というのは、岩礁と岩礁との間の深みのことである。干潮時でも深さ一尋(ひとひろ約一・六米)もあるという「おまつのえご」は、飽(あわび)や栄螺(さざえ)や蛸や魚がよくとれるが、どうしてここが「おまつのえご」と呼ばれるようになったのだろうか。
 昔、越瀬におまつという娘があった。父親は早く亡くなって母親とただ二人きりの淋しい暮しであった。おまつは生れつきの器量よしで、それが年頃になってからは彼女の健康で、つくらざる自然の美しさは「須崎小町」と噂されて若者たちの憧れの的だった。
 でもおまつはいくらやいやい騒がれても、誰になびくということもなく、柳に風と受け流してたった一人の母親のために、海にもぐったり、磯に出かけたり、畑に出かけたりして一生懸命働いていた。
 或る時、しばらく海が荒れて磯に出かけることも海にもぐることも出来なかった。
しばらく風も凪いで穏やかになった或る日のこと、おまつは久しぶりに平磯へ出かけていった。ところがその日おまつは珍しいものをとって来た。
それはほんとうにびっくりするほど大きな一本の蛸の足であった。
母親も驚いて「まあ気味が悪い、なんて大きな蛸の足だろう、足がこんなに大きくちゃァ、どんなに大きな蛸だろう。おまつ、お前と二人では食べきれないから、近所へも呉れてやったらいい。」と近所の人達にもわけてやった。
 それから、二三日して又おまつは前と同じ、大きな蛸の足を一本とってきた。
それから一本、又一本というようにおまつはとうとう七本までとって来たのであった。
始めのうちは気味悪がっていた母も、それを貰って食べていた近所の人達も、二本三本となるうちにだんだん平気になってしまって「とうとう七本まで足を足をとってきたのだから今度は八本目の足と蛸を生け捕りにする番だな」。と冗談までいう者さえあった。
・・・・さて、それから又或る日、おまつはいつものように平磯へ出かけて行った。母親はいつも帰る時間だと湯をわかし食事の支度をしておまつの帰りを待っていたが、日暮れになっても帰らないばかりか夜になってもおまつは戻って来なかった。
 「さあ大変だ。おまつが帰って来ないそうだ〕と村中の大騒ぎになった。おまつの家には村の人達が大勢集まった。「おまつはきっと蛸に喰われてしまったんだ。」「うん、あんまり器量よしだったものだから蛸の奴に見込まれて、蛸の奴は七本も自分の足を犠牲にしておまつを引き寄せた上、とうとう八本目でおまつをとり殺してしまったんだ。」「畜生め憎い奴だ。とっつかまえて叩き殺してくれなくちゃァー。」「そうだ、そうだ。」と村の人達は夜が白むのを待ちかねて、平磯へ急いで出かけて行った。
 そして、てんでに海にもぐり蛸が住んでいたと思われる岩と岩との間へ、四角の大きな石が、ずぶりと深く水の中に突っ立っているその下の穴の中から平磯を中心に港内隅なく探したが、とうとうおまつの姿は見出されなかったばかりでなく、当の大蛸の姿も遂に発見する事は出来なかった。
それから、この深みを人々は「おまつのえご」と呼んだ。
「おまつのえご」は今も昔のままに底知れぬ水をたたえている。
下田市の民話と伝説 第1集より