戒運さん
須崎の旭洞院(通称西寺)本堂の西側墓地への登り口に「戒運さん」と呼ばれる墓がある。この戒運さんは、″吹き出もの"の治療に効験があるといわれ、今でもお詣りする人が多いという。
戒運さんは須崎の人で、江戸通いの運搬船の乗組員であったが、或る時の航海で台風に遭って船は砕け板切れにつかまったまま流され流されて南鳥島に漂着し、この島で十数年間、魚や貝、鳥などを捕って食べて一人で生活していた。
その後附近を通りかかった船に助けられて、故郷の須崎に帰って来たが、長い年月に及ぶ偏食のために身体中に吹き出ものができていたため、生家にも置いて貰えず、やむを得ず須崎半島の西側下田湾側の洞窟に住み、一緒に乗っていて死亡した船員の供養のため、念仏三昧に明け暮れし、文化元年(1804)7月28日に此の世を去った。
その後村人はこの洞窟を「念仏あな」と呼んでいる。
今でもこの「念仏あな」の前を通ると満潮の時には戒運さんの念仏の声が聞えるという。家人や村人達がこの不幸な戒運さんを寺の横に葬ったが、いつからともなく村人の間に、「吹き出もの」が出来た時に、この戒運さんのお墓に小石を積んで拝むとその吹き出ものが治るといわれるようになり、お詣りする人が多くなったといわれている。
今でも老人達の間には戒運さんのお蔭で難治の吹き出ものが治癒したという人が多く、現在の墓の屋根も、子供時代、この戒運さんのお蔭で治ったと信ずる村人達が昭和48年献納したものである。
下田市の民話と伝説 第1集より
須崎の旭洞院(通称西寺)本堂の西側墓地への登り口に「戒運さん」と呼ばれる墓がある。この戒運さんは、″吹き出もの"の治療に効験があるといわれ、今でもお詣りする人が多いという。
戒運さんは須崎の人で、江戸通いの運搬船の乗組員であったが、或る時の航海で台風に遭って船は砕け板切れにつかまったまま流され流されて南鳥島に漂着し、この島で十数年間、魚や貝、鳥などを捕って食べて一人で生活していた。
その後附近を通りかかった船に助けられて、故郷の須崎に帰って来たが、長い年月に及ぶ偏食のために身体中に吹き出ものができていたため、生家にも置いて貰えず、やむを得ず須崎半島の西側下田湾側の洞窟に住み、一緒に乗っていて死亡した船員の供養のため、念仏三昧に明け暮れし、文化元年(1804)7月28日に此の世を去った。
その後村人はこの洞窟を「念仏あな」と呼んでいる。
今でもこの「念仏あな」の前を通ると満潮の時には戒運さんの念仏の声が聞えるという。家人や村人達がこの不幸な戒運さんを寺の横に葬ったが、いつからともなく村人の間に、「吹き出もの」が出来た時に、この戒運さんのお墓に小石を積んで拝むとその吹き出ものが治るといわれるようになり、お詣りする人が多くなったといわれている。
今でも老人達の間には戒運さんのお蔭で難治の吹き出ものが治癒したという人が多く、現在の墓の屋根も、子供時代、この戒運さんのお蔭で治ったと信ずる村人達が昭和48年献納したものである。
下田市の民話と伝説 第1集より