案山子にも弓矢を持たせない部落
「史話と伝説 伊豆 箱根」・・・参照の要あり
伊豆の伝説
 慶長11年夏の或朝の事である。富永山随軒三右衛門は馬に乗って加増野(かぞうの)の村を通り過ぎようとした。
これを見た小林上野守は、たまたま弓を射ておったが「乗馬のまま無礼な!」と大いに怒って、いきなり彼の騎馬の武士を射落してしまった。
そしてその倒れた所へ近寄って見ると、これは又なんと自分の主君富永山随軒であったのに、上野守は色を失って驚愕し「申訳なし」 と直に自害して相果てた。
 それから山随軒の祠廟は加増野報本寺に造られ毎年7月11日がその例祭日となっている。
この祭りには、周囲1尺(約30糎)あまりの青竹、長さ凡そ17.8米の先に旗をつけ、これを8人で掲げて寺の庭を廻りながら
垣根に住むか きりぎりす
焼き玉の家を力に 申せはやせ 子供ら(こんどもら)
榎木に住むか玉虫 申せはやせ 子供ら(こんどもら)
と歌うのであるが、歌っている中に竹はだんだんと重くなって遂には堪えられなくなるということである。
 山随軒のこの事があって以来、加増野では今日でも、本弓は勿論子供達の遊びにも、又田の中の案山子にまでも弓矢は持たせない。
 尚この報本寺は、もと堀之内の成就院においでになった圓願阿闍梨が或朝富貴野村(今の松崎町)宝蔵院に行こうとして加増野村風岩峠(今の婆娑羅峠)に差しかかった時、急に濃い霧が立ちこめて進む事ができなくなってしまった。
するとそこへ白衣の老人が出て釆て、山腹の岩窟に師を連れてゆき、「我はこの山を守護する者であるが、ここは昔、空海上人が婆娑羅三摩耶を修した霊場で仏法有縁の地であるから、汝は発願して一宇を建てよ、その功徳は広大ならん。」というとその姿は見えなくなった。元享3年7月のことである。
円願阿闍梨は大いに感激して、直にそこに堂宇を建て成就院から観世音を遷し、丹通閣と唱、え、本堂に大日如来を安置して光明閣と称し又祖志に報ゆるため大師堂を送って報恩閣といった。
 その後嘉歴元年婆娑羅山神護寺と号したが、後に哲叟和尚を開山として報本寺と改称したものである。
<参考附録>
史話と伝説 伊豆箱根二三四 山随権現研究資料
(1)「富永明神 山随権現縁起」  横川大梅寺所蔵
「伊豆之西浦土肥之領土富永公山随軒弾正卜云イシ人、騎馬ニテ加増ノ村ヲ過グルニ、其臣小林上野守卜云フ者富永ノ領ニシテ代官卜見エタリ。
適々弓射テ居シガ、来馬ニテ通ル何者カヲ無礼者卜存ジ怒リテ我主人タルヲ知ラズ之ヲ射殺ス。
傍ニ近寄ッテ見レバ是我主人也、即チ痛悔シテ自殺ス。
凡ソ主従十五六人皆共二自害ス、彼村七月以前ヨリ霊魂夜々ニ現ワレテ、修羅ノ思ヲナシ村人其所ニ社ヲ祭り、山随権現卜崇敬ス。
-中略-
頃ハ慶長十一年ノ事卜云フナり。日ハ七月十一日二察ナス。」
 尚今井福山の研究資料も参考図書に値す。
下田市の民話と伝説 第1集より