伊豆の国焼きと島焼き
(伊豆の国と七島伝説)
 白浜の三島明神は事代主命の妃神 伊古奈比畔命をお祭りしてあるが、東海道の三島明神と区別するため「白浜の明神様」として有名であるが、その三島明神緑起(三宅記)「島焼き」として次のような伝説が残されている。
▽伊豆の国焼き
 遠い昔のある日、富士の大神さまはうっとりと下界を眺めていた。東海の大海は限りなく美しく眼下に広がっていて、大神の心を楽しませてくれる。
 つくづくと太平洋を眺めていた大神様は、この海の中に国を焼き出したならば、きっと明るく豊かなよい国ができるだろうとお考えになられ早速片腕をぐっと海の底へ突込んで上にもち上げると、土がもくもくともり上り、中から火が吹きはじめた。昼も夜も、火はあかあかと海を染めて燃え続け岩や海の泥を焼き固めて、海の中に突き出した国「出ずの国」を焼き上げたのである。「これでよし。」大神様は「出ずの国」のまん中から吹き出していた火をフーッと吹き消された。
 その時大きな火の粉がひとつぽんと海の中に吹きとんだ。
「火の大神のつくる国は陽国・・・ここを出ずの国と呼ぼう。」と仰せられて小さいけれどとてもよく出来た国をお喜びになり火の粉のことはすっかり忘れていた。
 大神様が火を吹き消したあとにはもり上った天城山魂ができており、その火口は水がたまって池になった。池は「あおすずの池」と呼ばれ、周囲が八丁あるところから、今では「八丁池」と呼ばれている。
 大神様が火の腕を突込んで焼き上げた伊豆の国は、火の神の腕の熱さを今も残して、湧く水は温められ温泉となって半島の各地に湯煙りを上げている。
 太平洋に突き「出ずる国」は、又「温泉出ずる国」でもあった。
山紫水明、常夏の国、詩の国と呼ばれ、風光明媚を以って誇る国は、伊豆の国。伊豆半島はこうして誕生した。
 富士の火の大神様の消し忘れた火の粉は、海の中に落ちて燃え続けた。 今私たちは「火の島 御神火の島」としてここを伊豆の大島と呼んでいる。
▽島焼き
 その昔、、うららかな春の或朝
燦々と降りそそぐ朝の陽をあびてお立ちになった富士の大神様は、すがすがしい大気を存分にお吸いになって、雄大なあたりの景色に見とれておいでになった。するとその時、下の方から見なれない男が一人登って来て、立っておいでになる大神様の側まで来ると、うやうやしく頭を下げて額の汗を拭いながら「私は天竺から参った王子です。継母に道ならぬ想いを寄せられ、それを拒んだのがもとで、父王の勘気をこうむり、国にいられなくなりましたので、はるばる日本に安住の地を求めてやって参りました。どうぞよろしくお願い致しとうございます。」と言うのであった。
 その態度といい気品といい、立派である。大神はひどく憐れに思召されて海中に突き出した伊豆の地を与えてくれた。
 王子は非常に喜んで早速伊豆の国のあちらこちらを巡られ、今の白浜へ来て大きな楠の木の下で想われたが、のどがかわき水を欲しくなったので、足で地を少し堀られると忽ち清水が湧き出て来た。
 王子はそれでのどをうるおし、身を浄めて、さて浜辺に立って地勢を見られたが、如何にしてもこれでは狭い。
「もう少し土地を欲しい。」と思って再び富士の大神様にお願い申上げると大神様は「よしよしそれでは広い海をあげるから、海中に島を焼き出したらよい。
 然しその前に一度国へ帰って、父王の勘気を許して貰ってくるがよい。」と仰せられた。 
 王子は大神のお言葉に従って天竺に帰り、父王にこれまでの事をつぶさに語り赦しを乞うたところ父王も快く勘気を解かれた。王子は気も晴ればれと喜び勇んで高麗の国を経て、再び日本へと志したのであった。
 ところが途中折悪く、暴風に遭い船は激浪に玩ばれて施す術もなかった。この時王子は何を考えたか、持っておった扇を高くかざして破れかかった帆をうちあおがれると、不思議や、今まで荒れ狂っていた波も風も静まり、船は無事に丹後の国へ着くことが出来た。
 上陸した王子と船の者は、この航海ですっかり飢えと疲れに打ちひしがれ重い足を引きずりながら、食と宿を求めるために一軒の家をおとずれた。
 そこには年老いた翁(おきな)と娼(おうな)が住んでおり、二人共百済から渡って来たもので、翁は320オ、若宮、剣
宮という二人の男の子と見目という一人の女の子を持っているということもわかった。
 そして、この三人の本体は、若宮は普賢、剣宮は不動、見目は弁財天であった。翁は王子から話を聞いて王子を大変憐み、厚くもてなして、「それでは私の三人の子供をお連れになって、早く伊豆へおいでになり、海中に島を焼き出してお住みになられるよう、そしてこれから王子は 「三島明神と名乗り給え。」と言った。
 翁の言葉によって三島明神と名乗った王子は翁の厚意を深く謝して丹後の国をあとにされたが、それからは順風に帆を上げ穏かな航海を続けることができた。と、或る日のこと、たまたま明神が船で話されておった法華経の一巻を過って海中にとり落されたので、つのはづの弓でかき寄せられると、不思議や弓の弭(ゆはず)に鰹が一尾食いついていた。船の者は「これは面白い」と言って明神から弓を借りてやってみたが鰹はさっぱりかからなかった。「これは不思議だ。」と言って明神が弓をおとりになってなさると鰹はまた食いついてくるので、明神は大いに興がって、乞わるるままに沢山の鰹を取って与えられたのであった。
 そのうちに、船は美穂ケ崎に着いたので、明神は早速富士の大神様に謁してこれまでの経過を申し上げ、いよいよ伊豆の海中に島を焼き出す事になった。
 まず、明神の御使い、見目に頼まれた海龍王が、白龍王、青龍王をはじめ、沢山の龍王を連れて来るし、若宮、剣宮に頼まれた火の雷、水の雷、高根大頭龍等は、これ又多くの神々と一緒に集って来られた。
 これらの神々が三島明社を囲んで、紺碧の海を前に真白な浜に立ち並んだ姿はまことに勇ましくも厳かなものであった。「さあ始めようぞ。」といって先ず龍王が三つの大きな石を海上に浮べると、火の雷がこれを焼き、水の雷がこれに酒いだ。忽ち火炎は天に沖し、海水は沸々と泡立って、一昼夜にして一つの島が出来上った。
 続いて白浜の龍神が海中から石を拾い上げると、神々はこれを積重ね、又、火の雷がそれを焼いて一つの島が出来た。そこで神々はこれを本拠として更に7月7日夜の間に10島を焼き出し、これでひとまず島焼きの仕事は終ったのであった。
 明神は大喜びで、神々や龍王に厚く礼を述べられ、第一に出来た島を初島と名附け、ここに丹後の翁からもらって来た「タミの実」をお植えになった。
 それから第二の島は神々が本拠として集合されたので神津島、第三の島は大きいので大島、第四の島は塩の泡を集めて築き色が白いので新島、第五の島は家が三つ並んだようなので三宅島、第六の島は明神の御倉を置こうというので御蔵島、第七の島は遥か沖にあるので沖の島、第八の島は小さいので小島、第九の島は天狗の鼻ー王の鼻に似ているというので王鼻島(おうごじま)、第十の島は十島とそれぞれ命名された。
 そこで明神は、天地今宮の后と共に三宅島においでになられて島政を掌り、見目と若宮がそれぞれ献じた妃を各島に配置された。
 即ち大島には「ハブの妃」をお置きになって二子を挙げられ、新島には「ミチノクの妃」を置かれて二子を挙げられ、神津島には「長浜の妃」をおいてこれにも二子を挙げられ、沖の島には「イナバエの妃」を置かれて五子を生ませられた。更に天地今宮の后にも二子が挙げられ、その後更に三妃を得られて、目出度くいやさかえに栄えられたということである。
 又一説には島を焼き出す時、明神は富士の大神様の一番太った所の土をいただいて島を焼き出したともいわれている。太った所をけずられた富士の大神は一層美しくなられ、その時にけずられた所が今の宝永山、富士から土を運ぶ途中で、もっこからこぼれた土が箱根の双子山になったともいわれる。
見目、若宮、剣ノ宮の三人を白浜に祀った三島明神は、東海道口伊豆の三島大社と区別するために今では白浜明神と呼ばれている。
下田市の民話と伝説 第1集より