朝日の里月吉の村と云っていたころの話です。正太は今日も鶏に餌をやっておりました。入口の戸を開けて餌を入れてやりましたが、その隙に一羽がとび出しました。びっくりした正太はその一羽を追いかけましたが、あとからあとから鶏は外へ出て嬉しそうに羽ばたきしてかけまわります。戸を閉めるのを忘
れたのです。「正太!鶏が出たぞ−、早く追いこめよ、早くしねえとどっかいってしまうぞ−。」母の声が織小屋の方から聞えました。
 正太は一生懸命鶏を小屋に入れようと追いかけましたが、一羽が入ると一羽が出る、こちらを追えばあちらがにげるで、中々小屋には入りません。
「正太!早くしねえか。」
母の怒ったような声に正太は足もとにあった小さな石を拾うと一羽を目がけて投げつけました。石は見事に命中して、鶏はそこにうづくまりました。これを捕えると小屋に入れました。
正太は小さい時から浜に出て海に向って石投げの練習をしましたので石投げは名人と云われる程上手で、時々は木の枝に止まっている小鳥にも命中させて捕える程でしたが、近所の人は「正太はうすのろだ、馬鹿だ。」と云って遊び友達もありませんでした。
こうして正太は鶏を捕えては小屋に入れましたが、その中の何羽かは石の当り所が悪かったのか死んでしまいました。
近所の人は「餌をくれれば鶏は小屋に入るのに正大はやっぱりうすのろだ、石をぶっつけるなんて馬鹿だ、正太も正太だがおふくろもおふくろだ。」と、笑い話にしました。けれども母親は正太をうすのろだとは思いませんでした。「この子は正直で、親の云いつけをよく守るよい子だ。」と可愛がりました。
 鶏の数が少くなったので買い入れるために、母親は自分の織り上げた反物を正太に持たせて下田の町へ売りにやることにしました。
 「正太や、此の反物を売って鶏を買うのだが、売りに行っても売りたいような顔をしてはだめだぞ、つけこまれるから、それから先に向うから口をきいてくるような人は怪しい人だ。そんな人に話したり見せたりしてはいけないよ、だまっている人で正直そうな人にお前から声をかけて売ってくるんだよ、いいか。」
と母親はみんながうすのろだなんて云うので、くどくどと云い聞かせました。正太は反物を包んだ風呂敷を右の肩から左の脇下へと背負わされて、入田の化石水の観音様の川を渡り多々戸から山の上の細い道を通り、下田境の峠の地蔵様に一寸と頭を下げてお参りすると、下り坂になっている鍋田の上から、又お山を登って下田の町へ。
 正太は道々考えました。誰が買ってくれるか、いくらで買ってくれるか、だまっていて買ってくれる人は誰かな? トポトボ歩いているうちにもう下田の町に入りました。
 河岸通りへ出ると大勢人が集まって何か大さわぎしているので、こゝで買ってくれる人があるかと思って立っていると、「小僧!!じゃまだぁ、そこをどけ!!」とどなられました。ここは魚の売り買いをしている所でした。町の中に入って呉服屋の前に立ちましたが、どこの家でも「小僧何でそこに立っている。」とか「何か用か。」とか、先に言葉をかけて来ます。
こんな所はおっ母の言ったあぶない所と思って立ち去りました。
あちらこちら歩いているうちに日も西の山に傾いて釆ました。腹はへるし、帰りが遅くなると山道はさみしい。正太は反物を背負ったまゝ −− だまって買ってくれる人はいない、皆悪い人ばかりだ−− と思って帰り道につきました。
 鍋田の上を過ぎ吉佐美と下田境の峠の地蔵様の所まで来ました。お地蔵様は黙って立っていました。地蔵様に手を合せて拝んだあとしばらく地蔵様を見ていましたが、地蔵様は何とも云いませんでした。正太は背負っていた反物をおろして、「地蔵様お前買ってくれよな、おっ母か云ったようにだまっているか
ら買ってくれるな。」と念を押しました。それでも地蔵様は黙っているので、正大はこの方こそ反物を買ってくれるものと信じて地蔵様の前に反物を置くと、スタスタと家路を急ぎました。
おっ母は首を長くして待っていました。
 「正太!!いくらに売れた?」「知らねえよ、地蔵様だもん。」おっ母はびっくりしました。「あの反物をどけえやった。」「地蔵様だけが黙っていたから売って来たよ。」「どこの地蔵様だ!!」
「あの峠の地蔵様だよ。」おっ母は正太の手をとって一目散に峠の地蔵様にかけつけましたが、そこに反物はありませんでした。
夕日が美しく西の空を染めて、地蔵様と母子を照していました。
 「正太、どけぇ−おいたのさ。」「この地蔵様の前だよ。」「反物ないじゃあないか。鶏はどうするだよ。」おっ母は涙声で正大を責めました。正太はいきなり地蔵様にかぶりついて「なあ地蔵様お前はだまっていて買ってくれたなあ−−地蔵様!!返事しろよ−」と地蔵様を二三度ゆさぶりますと、地蔵様は後ろ向きに倒れました。と、台座の所がピカッと光りました。小判が三枚夕
日に光っています。おっ母はびっくりしましたが、「正太は馬鹿ではない。親の云いつけを守るよい子だ。地蔵様がこれこの通り正太の反物を買って下さった。親の云いつけを守ったごほうびだ。」
母子二人で、もとのように地蔵様を起し前にひざまずいて丁寧に拝むと、おっ母と正大はうす暗くなった道を手をとりあって、家へ帰りました。
「現在は道路が変ってこの地蔵様もどこへ行ったのやら。
峠もトンネルから切り通しになって昔のおもかげはありません。
下田市の民話と伝説 第2集より