明治の初めから20年代頃の話、上田町の角に西ノ屋という親分があった。
 秋の初め頃、そこへ20才位の男と15.6才の娘が尋ねて来た。男は親分が知り合いの甲州商人の息子だったが、二人をそわしてくれと親分に泣きついた。そこへ2人の親達が追って来て、両方共一人きりの跡取りだから、あきらめよと懇々因果を含めた。二人は思ったより素直に納得したので、その夜は皆ぐっすり寝込んだ。
 八幡神社の朝の御つとめは早い。神主さんが、まだ薄暗い拝殿に御燈明を上げて、ふと横を見ると天井から荒莚がぶら下っている。何だろうと上げて見た途端、神主さんは縁先まで跳びのいて 「オーイ」と家人を呼びながらペタンと坐りこんでしまった。
莚の蔭には膝に白の晒木綿を捲いて正座した男女が、女は乳の下をえぐり、男は咽喉を突いて鮮血の中にうつ向いていた。
血の中にころがっていた短刀は、男の守り刀で鍔元に月型の薄い疵があった。二人は西ノ屋に居た男女であった。親分の情で、了仙寺に作られた立派な比翼塚に二人は葬られた。
 それから12.3年後、秋も深まり薄寒い夜であった。
稲田寺の庫裡に寝ていた和尚さんは、夜中過、ふと本堂の方で鳩の鳴くような声を聞いた気がしたが、そのまま朝まで寝込んでしまった。朝の勤行(ごんぎょう=おつとめ)にそろそろ起きようと眼ざめた和尚さんは、また鳩のような声を聞いたので、寝まきのまゝ本堂を覗くと、思わずぞっとして、足がすくんだ。
薄暗りに朦朧と見えたのは、本堂外陣奥の、阿弥陀さんの前の柱の下にうずくまって呻っている一人の男であった。驚いた和尚さんが本堂に入ってみると、本尊の左の方の観音さんの前に、もう一人女が血みどろになって死んでいた。
 男は左官の金という26才の職人、女はおてごという人妻で、二人は道ならぬ仲の果、短刀で心中したのであった。短刀の鍔元に月型の疵があって、お宮の心中との因縁話がささやかれた。
 阿弥陀さんの脇の柱には、血痕を削りとった跡が、数年消えなかった。
 稲田寺の観音さんは、もと海善寺と稲田寺の間にお堂があって、縁結びの仏さんといわれていたが、心中以来、色観音と呼ばれたそうである。
下田市の民話と伝説 第2集より