▽荒井の長者
昔、昔のこと、伊豆の国は天城山という険しい山によって隔てられていました。そのため、伊豆は「島」と呼ばれ、罪人の島流しの地、落人の隠れ住むによい地とされていました。ここ大賀茂も南伊豆の下賀茂や上賀茂につゞく「尾賀茂」と呼ばれていた頃の事です。今のように、家が立ち並びよい通が開けて
いたわけではありません。家はあちらに一軒こちらに一軒という程度で、あたり一面は、草や雑木の生い茂った野原でした。
その細い道を、鎧や冑に身を固めた、といっても鎧も冑も破れ、履くものも傷んでいましたが、戦にやぶれて落ちのびてきたのか、疲れ切った一団がやって来ました。姿こそみすぼらしいが頭領らしい品のいい侍と、その家来らしい数人と、家族と思われる女の人や子供達の一隊が、尾賀茂の里を林山の方から
何かを求める様子でやってきました。
なんでも都の方での戦に敗れ、追手から危うくも逃れて天城を越え、島と呼ばれる奥伊豆なら追手も来ないと、野に伏し山に寝て、ようやくここまで辿りついたということでした。頭領はあちらこちら見廻していましたが、里のうちでも一番草木が茂っていて肥えていそうな土地を探しあてました。そして、こ
の土地を「荒井」と名づけ、ここに落ちつき、家来たちもその近くにそれぞれ居を定めました。
頭領は生活の安定は先ず食糧の自給からと、家来達を励まし剣や槍を鍬や鎌に持ちかえて草を刈り払い、雑木を伐って、風の静かな日を選んではこれを焼き払い開懇をして、粟・稗・きび・陸稲等を作りました。一同の丹精の甲斐あって、新開地とは思われぬ程によい作物の出来ばえでした。とりわけ、山芋の蔓に粒々の実のなる(むかご)を採って植えつけましたが、これも見事な出来で、生でよし、煮てよし、焼いても美味い、貯
蔵も簡単とあって大変重宝でした。戦に明暮れ、敗れて追手の目を逃れた頃とは、打って変った平和で安穏の日々が続き、一同も見違える程元気になりました。
又、頭領はこの広い草原の利用を考え、家来達に馬を飼わせ放し飼いにして馬を育てました。草原の中で少し低くなった所に、大きな池があって、そのまわりを勢よく駈けまわる馬や、親仔の馬が仲よく水を飲んでいる和やかな風景も見られました。
頭領は何とかして、よい馬を育てたいと考え、年に一度「馬寄せ」といって家来たちの馬を集めては、馬競べをし、立派な馬を育てた持ち主には褒美をやったりしたので、馬の数もふえ、よい馬も沢山に出来、馬術の訓練もできるようになりました。
馬寄せをした所は、今の「まえせ」(屋号)の所だと言い伝えられています。
又、頭領は信仰心の厚い人で、神明様を守り本尊として自宅の神棚に祀っていましたが、一同の守り神として裏山の小高い見晴らしのよい所に立派なお社を建てて、ていねいに祀っていました。たまたま神様のお告げで、この山から金が採れることを知り、金の採掘もしました。
こうして頭領を始め一同のものは、次第に豊になり家来の人数もふえて、数年後にはあの疲れ果て、やせて貧相で見すぼらしかった頭領もふくよかな人となり、荒井の邸もすばらしい御殿のように建てかえられました。
奥方様も美しく優しいお方で、お子様達も可愛い利発の方々でした。頭領が奥方様やお子様達とお庭に出て春のお花見などされるお姿は、それこそ絵にかいたように美しく立派で、誰云うとなく「荒井の御殿」「荒井の長者」というようになりました。
こうして荒井の里には、平和で幸せな年月が流れていました。
「月に叢雲、花に風」の譬えのように荒井の長者の幸せも、長くは続きませんでした。
それは荒井の長者の評判が四方に廣がるにつれて、それが敵方、追手の耳に入ったからでした。「草の根分けても探し出せ!!」と厳しい命令を受けた追手は、家来達を四方につかわし何年も何年もかかって、やっと長者の居所をつきとめました。
「秋の日はつるべおとし」といい、風も冷たい夕方でした。
家来の一人が息せききって長者の前に駈けつけて申し上げるには、「人々の噂によりますと、追手が軍勢を引きつれて、こんどこそは打ちもらすなと東海道を伊豆に向かって進んでくる。」との事でした。
腕組みをして聞いていた長者は、じつと眼をつむって考えこんでしまいました。額の皺も深く髪には白いものさえ見えていました。
「勝敗は時の運」というが、追手にむざむざ捕えられて生き恥をさらす事は出来ない。さりとて、立て籠って戦えば双方に必ず死人や怪我人が出るし、温かく今日まで自分達をかくまってくれた、親切な村の人々にも迷惑が及ぶ。落ちのびて来た時から考えていたが、一戦は決してしてはならない。戦はもう決してしない。この10数年の土との生活、平和な暮し、家来や妻子ののびやかで幸福な生活を思うと、憎んでも余りあるものは敵味方に分れての戦である。戦は決してしてはならない。」
そう決心すると心の程を一族郎党に申し聞かせ、追手の来ないうちに、早々ここを引き払う準備をすると、用意しておいた船に乗って、遠い遠い所へ逃げのびてゆきました。
長い間に貯えた財宝は持ち切れないので、裏山に大きな倉、3つ分の財宝を埋めてゆきました。それから此の山を三倉山というようになったと云います。財宝を埋めた場所を記した記録帳も邸の長持ちの中にあったとの事で、「朝日さす夕日輝く白南天の下。」と、判読できたとか。
後年このことを伝え聞いた人は、我こそは長者の財宝を探し当てようと三倉山に登り、白南天を探し求め、その場所を掘り始めると、必ず誰もがひどい腹痛を起して我慢できず、これは長者の崇りだと、あきらめて山を下ったというものが何人もあったとの事です。
夜海上を通る船から眺めると、三倉山の一角にボーッと光のさしているのが見えたといいます。きっとそこが財宝の埋められた所であったのでしょう。
荒井の長者の消息は、それっきりわかりませんでした。
▽長者の長持ち
荒井の長者が去ってから、村人は長者の邸宅のあったあたりを長者屋敷と呼びましたが、追手の事もあり、改めて荒井条と呼ぶようになりました。
それから又、何年かたちました。荒井条に仁平さんと云う人がありました。仁平さんは大層信心深い人で、長者の祀ったという神明様を深く信仰し、朝夕心をこめて長者の安全と五穀豊穣、村内安全を祈ってお祀りしていました。けれどもその神明様のお社はどこにあるのかわかりませんでしたが、神様は心の
ある人に加護を下さると信じて三倉山の方に向って神明様大明神を称えてお祈りをしていました。長い年月の間に長者の邸もなくなりましたが、村人は長者の家にあったと伝えられる「長持ち」一つを長者の遺品として大事に守り、伝わり伝わって仁平の家に納められていました。
仁平の子に大錨という「しこ名」の力士(角力とり)がありましたが、この大錨は親に似ず無信心の人で仁平があれ程崇めまつっていた神明様を祀る事もしませんでした。それで「長者の長持ち」のことも気にしていなかったようですが、云い伝えるところによると「長持ち」には部厚い記録帳や、おまつりの
職、それに長者愛用の刀が納められていたとの事です。
大錨が無信心の上に大錨の妻は是又無信心、その上に字も読めず、記録の大事なこともわからないまゝに、破ったり焚きつけにしたりして無くしてしまいました。刀も幟もどこへどうしたか分らなくなってしまったそうです。
一説によると刀はさる人がこの刀で自殺したので、その人の棺に入れて埋められた、とも云われます。
こうして「長者の長持ち」もなくなってしまいました。
▽夢の白馬
それから又、何年かの歳月が流れ去りました。
田原仙太郎という信心深い人がありました。この人がある時、二晩、いや三晩続けて同じ夢を見ました。それは馬が二階を歩く蹄の音がしたかと思うと、しばらくして白馬が三倉山に駈け登って行ったかと思うと消えてなくなったというのでした。三晩も同じ夢を見た不思議さが何となく気になって、妻のりんさんにこの事を話すと、りんさんも「実は私も同じ様な夢を見ま
した。白馬が家の軒から離れると空をかけて三倉山の方へ消えてゆきました。その時は、はっきりとはきゝとれませんでしたが、何でも「神明さん、神明さん」と云う声が夢うつつながら聞えて、今でも耳に残っています。」ということ、さてもさても夫婦二人が同じ夢を見るなんて不思議な事だ。どうか悪夢でなければよいがと話しあいました.
仙太郎さんは「あっ、これは神明様の思し召し。」だと白馬が夢の中に駈け登ったと思われる道らしい所を辿ってゆくと、山の中腹より梢、上った所に朽ち果てた祠の跡のような所に出ました。「神明様の思召し。」これが伝え聞いた「荒井の長者の守
り神」神明様の社に違いないと、ここに小さな祠を建てて祀ることにしました。
▽神明様の祭り
仙太郎様一家でこの神明様を祀っていましたが、田原の姓をを名乗る家全体の氏神様として祀るのがよいと仙太郎様は考えて、田原姓を名乗る一統の人達と相談しました。
田原一統の人達は大喜びで、この意見に賛成し、早速当番制を決めて交代で祭りの支度をし、田原一同の人達がこの祠に集まって、神明様のお祭りを続けて来ました。
その後、この神明様の祠は三倉山の中であり、お祭りやお参りにも不便なので、現在の位置に、「神移り」していたゞき、毎年9月15日を例祭日とし、田原一族の人達が集り、下田の八幡神社の碓氷神官を請じて祭事を執り行ない、村の子供達を呼んで、果物やお菓子を振舞って、それは賑やかなお祭りが毎
年行なわれます。又、残暑の厳しい頃、神明様の社に登ってお祭りをするのも子供達には大きな楽しみの一つとなっています。
尚、神明様の移転に協力されたのは、「田中」(屋号)の斉藤盛蔵さんという海軍の兵役を終って、帰郷された方でした。
それで「田中」も田原一統の仲間に入ってこの祭りに参加しています。
又、この祭りが年々盛大に行われるようになったのは、田原義孝さん(田原歯科医のおじいさん)の力が大きいと話し合っています。
下田市の民話と伝説 第2集より