前田福太郎著「歩み来て」より)
 この問、ある本で見たら、
「狐や、むじなは人を化かすことはあるけれども、決して自ら化けるということはないものである。」と書いてあった。そこで 私は、それも昔ではなく、ごく最近、しかも分別ゆたかな一青年が、このお化けさんに出合った話を綴ってみよう。
 青年の名は金蔵、年令は24歳、時は昭和27年の秋、所は須崎の爪木崎海岸から外浦へ出る道中。
 金蔵は、子供の時から海釣りが飯よりも好きであった。何の道楽でもそうではあるが、この海釣りほど興味の津々たるものはないのだから、同じ村にも青年から中年、老人に至るまで、いわゆる釣道楽の連中、つまり御常連は、これはいつの時代にも、あとから現れて、不思議や今に尽きるということがない。
 私なども少年の時は、魚釣りが何よりも大好きであったが、祖父の重郎右衛門は、それこそ暇さえあれば出かけるといった風であった。大分年を取って来たので、何しろ足場の悪い磯のことであり、その女房、即ち祖母が、釣の方も止めたらどうであろうか、と忠告したところ、急に怒り出して日く「道楽で海
で死ぬなら本望だー!」と一喝したことを、私は今も覚えている。特に本望ということは、少年の私には生れてから初めて聞くむづかしい言葉であった。
 金蔵は畑仕事をしていたが、急に魚釣りに行きたくなり、心はずませて出かけた。釣り場には、人それぞれの得意な場所があって、そこに行きさへすれば、置いてあるものを持って来る様なもので、また、それがために道楽を忘れられないのである。
 秋の空が晴れて、沖は青く平らかで、陸にはすすきの穂がそよ風になびく。なびくすすきの穂をかすめて、はるかに伊豆の大島が静かに高く煙を上げる。農が忙しいので、誰も他には常連も見えない。自分の独り舞台の今日の釣は、意外にも10数尾を釣り上げた。魚の釣れ出すのは大抵夕方である。そこで、そのまゝ釣っていさえすれば、あといくらでも釣れるけれども、夜の海岸の山道はあぶないし、それに家まで2里(凡8粁)近くもあるので、彼はここらでいい加減の見切をつけて、重い籠をどっこいしょとばかり背負って立ち上り、誰も見てくれないほほ笑みを浮べながら、いよいよ帰途についた。秋の夜の潮の音、波の匂い、狭い岨道の脛にからまる茨や、薄の穂を分けながら、行き来馴れた道をしばらく歩いていると、たしかに此の道は右へ分れている筈だ、と思う路が見えなくなってしまうと、こんどは立派な、そしてはっきりとした白い路が新たに左の方に現われ出したので、はて?変だなと思っているところへ、ザァーという木の葉の散る様な音がした。と思うと、そこへあらわれたのは実に美しい年の頃17、8歳の色の白い髪の毛の濃い、田舎風ではあるがそれでいて気品のある娘さんである。こんな夜、こんな所で、こんな娘さんに会う筈もなさそうに思うけれども、その娘さんは、いきなり彼に向ってこんなに云う。
 「洒を飲みましょう。」彼には何よりの好物、一日中潮気と太陽の下で、のどは潟いたし、腹も減っているところへこの実に意外のおもてなし、しかも絶世の美人と来ているので、彼は彼女の好意を無にするわけにはゆかない。かの女は盃を出して彼に渡し、徳利の様なものからナミナミとお酌をしてくれるのであった。1杯、2杯が3杯となり、つい盃を重ねている中に、いい気持ちに酔ってしまって、彼は気がついた。これはお酒をいただくだけでは済まない。そこでご返盃というわけで、盃を娘さんに上げて、しどろもどろの手つきで、一杯お洒をついでやったら、かの女は受けて一気にこれを飲みほした。随分飲みっぷりのいい姉さんだと思っていると、この盃を再び彼に返してよこした。
 世にも珍しい夜の海岸の山道の酒盛りを、おばろげながらに自覚しながら、彼はその場にそのまゝ寝入ってしまった。
 何だか変に寒いな、と気がついて目をさまして見ると、彼は何んのことはない。桔葉のおどろの中に、そのまゝ寝ておった。
これは大変、とあたりを見廻したが、洒徳利の様なものも盃らしいものもなかった。時刻はわからないが、何でも真夜中の2時か3時であったろうか。籠の中の魚は唯の一尾も残っていなかった。                 
 金藏は言う。
「私がそんなことを言っても、「そんな馬鹿なことがあるものか。」
と言って、ほんとうにしない人もあるが、これは決してうそどころではない。しかも洒だと思って飲んだものは、何んであったかは今もってわからない。」と真面目に言っている。
下田市の民話と伝説 第2集より