(前田福太郎著「歩み釆て」より)
 下田町の東北に迫って聳(そび)えなす武山、即ち萬藏山は、そのまゝ更に東北に伸びて白浜の高原をなし、ここに霜山・女郎畑・平瀬などの肥沃ないわゆる穀倉地帯を展開する。
 私の生家でも、平瀬に数反歩の畑地を持ち、その一部は蜜柑畑となっていた。
 私共の祖父は天保生れの人であったが、若い時から信仰厚く慈悲ぶかく孫に対しても結構な爺さんであった。その茶目っ気の多い明朗さが余計に親しみを深くさせたのかも知れない。 心身の修行にと、四国88ケ所の霊場を2回、西国33の礼所を1回遍歴して、つぶさに苦行を積むとともに、田舎にだけ在っては出来ない、人生の視野を広め、体験を積むことをみ仏への報恩と考えていたらしい。
 ある年、高野山から何十里のあの山路を熊野に出た時、紀州蜜柑の黄金の実が、技もたわわに実っているのを見て、これは気候風土が最も以ている南伊豆の、わが白浜にも必ずや適するだろうと思いつき、何しろ昔のことであるから、伊豆まで送るという手もなく、そこで持てるだけと思って、10本の温州蜜柑の苗を抱え、長い道中を枯らすまじとていく度も水をやりながら、やっとのことで白浜へ持ち帰り、丹精をこめて育成したのであった。明治10年代のことであり、これが恐らくこの辺の温州蜜柑栽培の先駆をなすものであったろうと思う。私が物心の付いた頃はすでに立派な木となっていた。
 さて、ある年の盛夏8月、爺さんはたった一人でこの山畑に登って余念なく蜜柑の手入をしていたが、あまりにも暑いので、畑の下のヨセ(畦畔)の雑木林の中へ花茣蓙を敷き、しばしの昼休みをしていた。そのうちに、ついトロトロと眠ってしまった。
 それから何時間の後であろうか、変に自分の鼻の下と上唇のあたりがこそばゆく感ずるのに自然に目が覚めた。
 「はて何だろうか。」と思って、静かにひそかに目を細めに開いて見ると、これは何としたことか、世にも珍しいとても大きなこうをへたむじなが、たくましい四本の足をふんばって、自分をうかがっているではないか。ちょうど犬や猫が、食べようとする物を口ひげでためしているように。そして一種の野獣臭さを持った息を、惜しげなしに自分の鼻へ吹き込んで来る。
毎年この畑で採った里芋を、林の中へ埋めてかこって置くのを、根こそぎ持っていくのはこの先生だナ、と思うと、よし何とかして驚かしてやろうという爺さん特有の茶目っ気が起きて来た。
 そこで爺さんは、むじなに気付かれない様に、静かに静かに空気を一杯肺に吸い込むなり、力ありったけの声を張り上げて大声一喝、両手・両足を宙に向ってふんぞり返った。不意をくらったむじな殿、びっくり仰天どころではない。3、4間も(1間約1.8メートル)宙に飛び上って、あたりの樹木に頭を打ち、腹をたたかれ、這々の体でどこかへ逃げ去った。
爺さんは、誰かにこの光景を見て貰いたかったが、残念のことには自分の外に一人もいない。面白くて、おかしくて、いつまでもいつまでも、独り笑いのとどまる所を知らなかった。
 言うまでもなく、むじなは夜行性の獣である。それゆえ、人山間というものをこんなにはっきりと見ることはなかろうし、おまけに裸の人間など、決して決して見ることもなかろう、その不思議なものがいきなり大声を上げたので、どんなに驚いたか、想像も及ばないことである。
 人間をばかり化かしていて、おまけに折角一日がかりで釣った魚を根こそぎ取り上げるという、罪深いむじなの先生、今日ばかりは一生一代の不覚を取って、智慧深い人間重郎右衝門に、すっかり化かされてしまった。
 そのうちに漸く日も西に傾き、暑さもいく分和らいで来たので、爺さん再び畑に出て先程のことなどすっかり忘れて余念なく耕作を楽しんでいた折も折、突然、ほんとに突然、けたたましく、チャキン・チャキンと、大鉈(おおなた)かまさかりで防風林の松の大木の中空高い技を切り、ドサン・ドサンと地響きさせて落す音がする。
 人の山の樹木をしかも無断で、傍若無人に伐りなぐるというのは、一体どうしたことであろう。こみあげる怒りを押えながら、ひそかに小走りに近寄って行くと、音はぴったりと止んでしまった。そこで、まづ「オーイ、オーイ、誰だエー。」
と二度ばかり呼んで見たけれど、あたりはひっそりとして、何の応答もない。雑木の間から、そっとのぞいて見たが、杉の木にも何の異状もない。
 ハテ、不思議のこともあるものかな、と思っている時、両方のびんの毛がゾクゾクとして悪感を感じた。
鮮やかな、そしてお早い彼からのお釣であった。それから幾日も何事もなかったある日、いつもの様に草取りをしていると、大へんにのどがかわいて来た。お茶を飲みたいナァ、家から誰か熱いお茶でも持って来てくれればよいがナァと思っていると、畑の向うから、「ホイ」と呼んだ。おお持って釆てくれたなと思った。けれどもいくら経っても誰も来なかった。軽く一本やられたな。むじなやきつねは決して「オーイ」と長く呼べず、ただ「ホイ」と短く呼ぶものである。 
 それから無事の日が永くつゞいた翌年の秋、例の蜜柑の番小屋に宿って、もうそろそろ寝ようかと思っている途端、急に竜巻きに似た大暴風が起り、石が飛び樹木が折れ、まるで怒涛のような地響きを立てて天地が鳴動する。や来たな、時を移さず、そこにあった石油の空缶を火吹升で思い切り叩いて応戦、彼を撃退した。こんどは爺さんの迎え撃ちで、先ず先ず判定勝である。
 またある晩のこと、一人宿りの長夜の所在なさに、白浜明神のお祭の時の、今は乾いて固くなった餅をコンガリと焼いて食べようか、と思っていると、又不思議や箕程もある黒い掌がニョッキリと小屋の中に急にあらわれた。
 素より法力を持った爺さんは、狐狸のたぐいのいかなる化け秘術に対しても驚くなどということはない。
 「ナアンダ、お前も食べたかったのか。ヨシヨシ」と独ごちながら小屋の外に出て、石の上の花を払いのけ、そこにその餅を置いてやった。朝見に行った時は全部食べ尽されていた。その後は、宵々の食べものの一部を必ず分ち与えることを忘れなかった。それからというものこの二人は大の仲よしとなってし
まった。
 こんな事が数年に亘って続いたが、どういうものか其の内に彼の消息がすっかり無くなってしまった。彼の一身の上に何か悪い運命が及んだのではなかろうか。それとも何処かへ移ってしまったのであろうか。心待ちに待ち待ち3年の月日が流れた。
 フトした人の噂に、こゝの北側の山の斜面に大きな巌があり、その下にむじなの穴があるのを、中村の猟師が発見し、猛犬をかけて、世にも珍らしい灰色の刺毛のある大むじなを、とうとう撃ち取ったのは、今からちょうど3年前のことである。と聞いて彼は悲しみ歎き、この蜜柑小屋の夜をこめて、長い長い普門品第25を初め、ありがたい経文の数々を詞して、彼のために回向をさゝげた。
 重郎右衛門は明治40年の秋、69才を以て没した。私の16歳の時である。降る様に湧く様に虫の鳴く夜のことであった。
下田市の民話と伝説 第2集より