蓮台寺に天神さんと呼ばれる小高い山(60米)がある。
この山の西側の麓の小さい祠の中に、略等身大のお地蔵様が祀られている。
近所の人々は子育て地蔵と呼び、願をかけるとよくお聞き下さるというので、お花や香の煙りが絶える事がない。
 このお地蔵さまは、はじめからここに祀られていたのではなく、大沢の方から流れてくる小堤川と温泉場蓮台寺から藤原越えといって稲梓の方へ越す山から流れてくる小陣屋川の合流点(現北高校グラウンドの西方)の土堤の上に祀られていたものだが、川の改修のためにここにお引越しいただいたものだと云
う。
 このお地蔵さんについては、次のような恩讐を越えた物語りが伝えられている。
 寛永年問徳川三代将軍大献院源家光公の治世の頃である。小陣屋川の上流の小高い丘に安産の神としての天馬駒神社(祭神佐妓多麿姫命(サキタマヒメノミコト)がある。その傍の段々畑で仇討ちがあった。世に名高い蓮台地仇討ちである。
 討つ、討たれるは時の運とは云え、討つのは播州姫路松平大和守の家臣、水野三之助の一子三蔵。討たれる武士は同家臣三之助の上司磯山勝左衛門であった。
 三之助と勝左衛門の間にどんな怨恨があったのか定かでないが、とにかく二人の問には悲しい運命がからみあっていた。
 三之助の子三蔵は父の無念を晴らすべく、武芸の修業をしつつ四国は土佐高知、更には九州、奥羽路と仇の勝左衛門を探し歩いたが、遂に仇の行方はわからなかった。
 偶々江の島の弁天様に参拝して、父の仇がうてるように37日問の祈願をこめた。満願の日江の島弁天の御神託で「温泉で有名な豆州蓮台寺村桂昌院に、小林と名をなのる手習いの師匠がいる。その者がお前の探し求めている勝左衛門その人である。とのお告げがあった。
はるばる奥伊豆の蓮台寺村に辿りつき、松技五郎兵衛方に宿をとった三蔵は、それとなく手習い師匠の様子を探った。小林と名乗る手習い師匠は父の仇、磯山勝左衛門に間違いない。桂昌庵の隣は広い桑畑であった。夜は暗く若し討ち損じてはと考えた三蔵は、白昼堂々と名乗り出で、この桑畑で斗い、遂に仇討本懐を遂げ、天晴れ武士道を貫き、父の無念を晴らしたのであった。討ちとった磯山にはすでに子もあり孫もあった。
しかし、父の汚名に彼らは何処ともなく立ち去っていった。
 三蔵は勝左衛門に怨はあっても、その子やいたいけな孫たちには何の恨もない。どうかこの子達が健やかに成長するようにとの願いをこめて、桑畑の近く小陣屋川の堤に一基の地蔵を建てた。
 星移り歳変って三百余年、地蔵さまは幾度かの洪水に流され、土砂に埋もれ、首もとれて、小陣屋川の合流点に(今の松屋商店裏あたり)うずもれていたが、信心深い土地の老母達が拾い上げ、新しい首をもつけて、福も建ててまつっていたが、誰云うとなく、この地蔵は「子育て地蔵」と呼ばれるようになった。
下田市の民話と伝説 第2集より