【幕末・悲劇のヒロインと呼ばれる「お吉」の生涯】


 「唐人お吉」との呼び名で知られる斎藤きち。
村松春水の『実話唐人お吉』を基に、十一谷義三郎が、昭和3年(1928)『唐人お吉』を発表、翌年『時の敗者唐人お吉』が東京朝日新聞に連載された後、「お吉」は戯曲、映画にもなり、下田の名とともに全国に知られるようになりました。
 きちは、天保12年(1841)、愛知県知多郡内海に船大工・市兵衛、母・きわの次女として生まれます。(幼少のころに下田に移り住む。)幼くして市兵衛を失ったきちは、下田に入港する船の船頭たちの洗濯女として生計を支えます。きちが16才のとき、下田において米国総領事として着任していたハリスが健康を害し、看護婦を要求したのに対して、日本側がこれを拒絶すると、条約談判が破談となる危機を迎えます。あわてた日本側は、ハリスのもとに「きち」を、オランダ人通訳ヒュースケンのもとには経師屋平吉の娘「ふく」を仕えさせることとしました。「きち」には支度金25両、年手当120両が報酬として、渡される約束となりました。(当時の大工の手間賃が1ヶ月で約2両程度だったといわれる。)
 しかし、きちは三夜で暇が出され、玉泉寺通いは終わります。その理由は、きちがハリスの世話をしている最中に、腫れ物ができていたために、自宅療養を仰せつかったとのことであるが、全快後も玉泉寺でハリスに仕える機会はなかったようです。
 解雇後のきちは、異人と交わったという偏見により、船頭たちの洗濯ができなくなり、暮らしに困り、下田領事館の閉鎖とともに、下田から姿を消します。
 明治元年(1868)、横浜で大工の鶴松と同棲しますが、明治4年(1871)には下田に戻り、女髪結いを営みます。しかし、周囲の偏見からか経営も思わしくなく、酒に溺れたこともあって三島へ。明治15年に再び下田に戻り、小料理屋「安直楼」を営みますが、酒に溺れる自暴自棄の生活から、破産に追い込まれ、晩年は物乞いをする生活だったようです。
 病気を患ったきちは、角栗の淵(かどくりのふち・現在のお吉が淵)に身を沈め、引き取り手のなかったきちの亡骸は宝福寺に葬られました。(享年50歳)
 物語の「唐人お吉」と実際のお吉との間には、少なからず差異がありますが、その哀しい生涯を供養するため、お吉の命日である3月27日には、お吉ヶ淵と墓所である宝福寺において、毎年供養祭「お吉祭り」が開催されています。