幕末・黒船来航時の時代背景



 幕末期、日本が鎖国政策をとっている間、欧米諸国は近代国家への歩みを進めていきました。
イギリスにおける18世紀から19世紀前半にかけての産業革命が、他のヨーロッパ諸国やアメリカにも及び、列強各国は植民地の獲得競争に乗り出し、その矛先はアジアにも向けられました。
 18世紀末から19世紀はじめにかけて、ロシア船やイギリス船が、日本近海に来航し、鎖国の扉を叩こうとしましたが、幕府は頑なに鎖国政策を堅持します。しかし、清国がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを聞くと、異国船打払を緩和し、薪水給与令(しんすいきゅうよれい)を出し、漂着した外国船には薪水・食料を与えることとしました。
 しかしながら、鎖国を守る姿勢は変わらず、弘化元年(1844)、オランダ国王が親書をもって開国を奨めますが、幕府はこれを拒絶して、鎖国体制を守り抜こうとしました。弘化3年(1846)、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航し開国を幕府に交渉した際にも幕府はこれを拒絶し、ビッドルは目的を果たさないで帰国しました。

日米和親条約の締結



 嘉永6年(1853)6月、アメリカの東インド艦隊司令長官兼米使提督マシュー・ペリーは軍艦4隻を率いて大西洋を横断、喜望峰をまわり、インド、中国、琉球を経て浦賀に来航、開国を要求する大統領の国書を幕府に受け取らせます。その圧力に負けた幕府は、一旦ペリーを退去させて翌年まで回答を延期させます。
 約束の嘉永7年(1854)1月、ペリーは軍艦9隻を率い、江戸湾へ入港、幕府を威圧して条約締結を迫り、ついに同年3月3日、日米和親条約(神奈川条約)が締結されることとなります。
条約の内容は
(1)アメリカ船に燃料や食料等、欠乏品を供給すること
(2)下田、箱館の2港を開き(下田は即時、箱館は1年の後)、下田への領事の駐在を認めること
(3)アメリカに一方的な最恵国待遇を与えること。
等、計12条でした。これにより、イギリス(嘉永7年8月)、ロシア(安政元年12月)、オランダ(安政2年12月)とも同様に条約を結ぶこととなり、200年以上続いた鎖国政策は崩れ去ることになりました。

ペリーの下田来航


 日米和親条約(神奈川条約)を締結したペリー艦隊は嘉永7年(1854)3月18日から21日にかけて、下田に順次来航します。
日付隻数船名推進トン数艦長
3月18日2サザンプトン帆船567ボイル大尉
サプライ帆船547シンクレア大尉
3月20日2レキシントン帆船691グラソン大尉
バンダリア帆船700ホープ中佐
3月21日2ポーハタン蒸気船2,415マックラニー大佐
※ペリー搭乗
ミシシッピー蒸気船1,692リー中佐
4月6日1マセドニアン帆船1,341アボット大佐
(小笠原へ食糧調達に行っていたため、マセドニアンは遅れて入港)
 浦賀に来たペリー艦隊9隻のうち、サスケハナ号は中国へ、サラトガ号は本国へ条約を携えて行ったため、下田には7隻が来航しました。
 ペリー艦隊の最初の上陸は非公式でしたが、浦賀奉行所の支配組頭である黒川嘉兵衛が応接し、3月24日群集が見物する中、了仙寺で饗応が行われました。幕府は急遽、嘉永7年3月24日下田奉行に伊沢美作守(いざわみまさかのかみ)を任命し(着任は5月8日、その間は黒川が応接)、ペリー艦隊の応接に当たらせました。ペリー艦隊の下田滞在は約70日を数え、そのうち約1ヶ月は翌年3月開港となる箱館の調査でした。

日米和親条約付録 下田条約


 日米和親条約では、薪、水、食料、石炭等航海に必要な欠乏品を日本幕府が供給することを決めました。また漂流民の保護、下田湾内の小島(犬走島(いぬばしりじま))を中心として周辺七里内(約28km)の遊歩権を保障することなどが決められていました。 嘉永7年5月、箱館の見分から下田に帰港したペリーとの間に、日米和親条約付録下田条約の交渉が了仙寺で開始されます。
 付録条約の交渉は、日本側全権・林大学頭(はやしだいがくのかみ)、江戸町奉行・井戸対馬守(いどつしまのかみ)、下田奉行・伊沢美作守(いざわみまさかのかみ)、都築駿河守(つづきするがのかみ)らとペリー提督の間で行われました。
 5月13日、両者会見の日ペリー一行は祝砲を轟かせ、大砲4門を先頭に曳き、軍楽隊演奏にのって300人もの水兵が剣付き鉄砲を肩にかけて、了仙寺まで堂々と行進し、下田の人々を驚かせました。
 5月22日、了仙寺本堂で条約が調印され、25日に条約書の交換が行われます。調印式においては、日本側は畳を積み重ねた上に正座して、イスに着席した米国側と目線を合わせたといわれています。この付録条約13ケ条(下田条約)の内容の中には、米船員の上陸場所(下田、柿崎その他)、欠乏品供給所、異人休息所(了仙寺、玉泉寺)、洗濯場、立入許可区域、鳥獣の捕獲禁止、商品取引の管理、死亡者の埋葬(玉泉寺)、港内水先案内人の設置等々の細目が決められました。
 目的を果たしたペリー艦隊は嘉永7年(1854)6月1日帰国のため、下田港を出港しました。